こんにちは、サニーリスクマネジメントです。
今週のブログは、先週から始まったシリーズ「帝都復興院の為政家たち」と題し、今週の「防災週間」並びに9月1日の「防災の日」に向かい、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災からの復旧・復興に向けて政策を執り仕切った6人の政治家の言葉や災害対応のエピソードを紐解きながら歴史を振り返るとともに、現代の復旧・復興のありかたを探っていきます。
今回は、耐震構造学や建築防災工学を起こし、東京と横浜の復旧・復興を担った「帝都復興院」の建築局長兼理事を務めた佐野利器(さの としたか)のことばとともに、関東大震災からの復興で特徴的であった土地区画整理について考えてみましょう。
工学の知識を活かして
『帝都土地區畫整理に就て』(1924)には、第一回土地区画整理大講演会で東京市民に向けられた数々の講演が収録されています。当時東京市長であった永田秀次郎による『區畫整理に就て市民諸君に告ぐ』から始まるその書籍の中に「建築學會副會長 工學博士」として佐野の講演も収められています。佐野は次のような事業の計画に携わりました:
"(前略)その內私自身が直接擔當して居つたことから御紹介致しますれば、燒けた市內の小學百十七校の復興とか、新たに中央市場を千五百萬圓の豫算を以て設立すること、十有餘箇所の大小の病院を作ること、その他諸種の社會事業に關する計畫等があつたのであります。(後略)"
鉄筋造やコンクリート造の建築の知識のあった佐野は「震災復興小学校」をはじめとして、地震と火災に強い建物の建造に携わっています。また、市場や病院など、経済・市民の健康のためのインフラも整備し直しました。ただ、彼も建築の専門家として携わっていた土地区画整理は「理想派」と「拙速主義」の対立が最も顕著に現れた場面でもあり、佐野の講演によれば、土地区画整理については帝都復興院が設立される以前から内務省都市計画局の案・後藤新平の案(いわゆる「大風呂敷」で理想派)・池田宏の案・そして佐野の案と様々な案が存在していたことが語られています。まず、区画整理の難点としては次のようなことが挙がりました:
"今日世閒にありまする議論中所謂憲法第二十七條*(中略)卽ち無償提供は一割でも何でもいかぬ、全部に對して補償しなければならぬといふ議論があり、又それでは費用が大變であるから實行困難なりといふ人もありました。その一方には、一體區畫整理といふことは何のために行ふのだ。これは土地所有者及び權利者に關しては改良事業ではないか。この種の改良事業の外にもまだ金の要る事業があるのである。それ故にこのことだけに就ては全部無償が至當であるといふ議論もあつたのであります。"
──今日世間にあります議論のうちいわゆる憲法第二十七条*(中略)つまり無償提供は一割でも何でもなく、全部に対して補償しなければならないという議論があり、またそれでは膨大な費用がかかるので実行が困難であるという人もいました。その一方には、「一体区画整理というのは何のために行うのだ。これは土地所有者及び権利者に関しては改良事業のほかにもまだ資金の必要な事業があるのである。だからこのことだけについては全部無償にすることは至極当然である。」という議論もあったのです。
*大日本帝国憲法第二十七条: 1. 日本臣民ハ其ノ所󠄁有權ヲ侵󠄁サルルコトナシ(日本臣民は、その所有権を侵されることはない) 2. 公󠄁益󠄁ノ爲必要󠄁ナル處分󠄁ハ法律ノ定ムル所󠄁ニ依ル(公益のために必要な処分は、法律の定めるところにある)
数々の課題を乗り越えて
ここでは旧憲法第二十七条、つまり所有権の問題と資金面のが語られています。当初の土地区画整理計画では、対象となる土地面積は約100万坪(焼失面積を全て含めた場合は約200万坪)、その区域内には5万戸以上の家屋があり20万人以上の市民が暮らしていたので、それらを全て買い上げて区画整理を行うにあたっては権利関係と資金の両面からの課題があったのでした。評議会や審議会なと数々の議会を経る中で計画は縮小され、資金も削減されていきます。最終的には次のような案に落ち着きました:
"(前略)それから區畫整理に就ては百萬坪位は國がやるが宜しからうが、唯かういふ大事業は國が決めて市民に行はしめるといふやうなことではないかね。自治體の意思に俟つて始めて行うべきものである。だから若し市民の方でやりたいといつて來るならばその費用としての補助貸付等は宜しいが、國自らやらうといふ案に就ては先づ削除する。唯百萬坪位はやったらよかろうからその費用は認める。(後略)"
この一節には、現在の災害対策に見られる要素が含まれています。それは、公共事業として行うこと(かういふ大事業は國が決めて市民に行はしめる)、市区町村ベースで行うこと(自治體の意思に俟つて始めて行うべきもの)の2点です。実際に土地区画整理計画においては、焼失面積のうち100万坪については国がその予算を負担することになりましたが、残りの100万坪は東京市の復興委員会や東京市議会で満場一致を得て国からの補助金を活用して市が主導して行うことになりました。佐野による講演は、これから復興事業にあたる市民へのメッセージで締めくくられました:
"(前略)非常に困難なる事業であるがために市民諸君には銘々相當なる犧牲を拂はれなければならぬことで、非常なる苦痛の伴ふことでもあります。甚だ御氣の毒の次第では有りまするが、要は帝都の復興可能なりや不可能なりやの別れ目の仕事であります。反對とか延期とかいふことで、ごつた返して居りますると、一日延びれば延びるだけ又困難の度も增すのであります。どうかこの事業は國も市も市民も皆協力致しまして、一は其の帝都復興の基礎事業とし一は自分及び自分の子孫に遺す遺產として、この光輝ある事業の成功を期さねばならぬといふことを深く感ずる次第であります。"
土地区画整理の効果
実際に約200万坪に及ぶ土地区画整理が完了し、街区は整備され、また耐震構造や耐火構造を持つ建物が多く造られたことで、東京は震災に強い街として生まれ変わりました。実際にこの土地区画整理は防火に対する有効性が証明されています。以下の2つの表を比較してみましょう。
表1: 関東大震災による焼失面積
(『東京百年史』(1979)をもとに作成)
旧区部 | 全面積(㎢) | 焼失面積(㎢) | 不焼失面積(㎢) | 焼失面積率(%) |
麹町区 | 8.16 | 1.81 | 6.35 | 22.2 |
神田区 | 3.07 | 2.88 | 0.19 | 93.8 |
日本橋区 | 2.96 | 2.96 | ─ | 100.0 |
京橋区 | 4.55 | 3.91 | 0.64 | 85.9 |
芝区 | 9.39 | 2.24 | 7.15 | 23.8 |
麻布区 | 3.97 | 0.00 | 3.97 | 0.0 |
赤坂区 | 4.23 | 0.31 | 3.92 | 7.4 |
四谷区 | 2.77 | 0.06 | 2.71 | 2.2 |
牛込区 | 5.21 | 0.00 | 5.21 | 0.0 |
小石川区 | 6.49 | 0.26 | 6.23 | 4.0 |
本郷区 | 4.83 | 0.85 | 3.98 | 17.6 |
下谷区 | 5.05 | 2.41 | 2.64 | 47.8 |
浅草区 | 4.81 | 4.61 | 0.20 | 95.8 |
本所区 | 6.08 | 5.76 | 0.32 | 94.8 |
深川区 | 7.80 | 6.60 | 1.20 | 84.6 |
合計 | 79.37 | 34.66 | 44.71 | 43.8 |
注: 網掛けは震災後土地区画整理を実施した区
表2: 戦災による焼失面積
(『東京都戦災史』(1953)をもとに作成)
旧区部 | 全面積(㎢) | 罹災面積(㎢) | 非罹災面積(㎢) | 罹災面積率(%) |
麹町区 | 8.28 | 4.37 | 3.91 | 52.8 |
神田区 | 3.10 | 2.24 | 0.86 | 72.1 |
日本橋区 | 3.12 | 1.53 | 1.59 | 49.0 |
京橋区 | 5.11 | 1.07 | 4.04 | 21.0 |
芝区 | 8.61 | 2.36 | 6.25 | 27.5 |
麻布区 | 4.29 | 3.14 | 1.09 | 73.2 |
赤坂区 | 4.30 | 3.24 | 1.06 | 75.4 |
四谷区 | 3.24 | 1.89 | 1.35 | 58.3 |
牛込区 | 5.21 | 3.73 | 1.48 | 71.6 |
小石川区 | 6.06 | 5.32 | 1.28 | 87.8 |
本郷区 | 4.87 | 2.00 | 2.87 | 41.0 |
下谷区 | 5.04 | 1.22 | 3.82 | 24.2 |
浅草区 | 5.21 | 4.66 | 0.55 | 89.4 |
本所区 | 6.49 | 5.50 | 0.99 | 84.7 |
深川区 | 8.24 | 7.95 | 0.29 | 77.9 |
合計 | 81.17 | 50.22 | 30.95 | 60.4 |
注1: 網掛けは震災後土地区画整理を実施した区
注2: 各区の全面積については1923年以降の統廃合により増減がみられる
1923年の関東大震災と1945年までの東京市における空襲での焼失面積率と罹災面積率を比較し、表2については罹災面積率が焼失面積率を上回った数値を赤で、下回った数値を青で示しています。特に関東大震災で区の100%を焼失した日本橋区では戦災による焼失は49%で焼失率は半分以下となっているほか、木造住宅が密集し人口密度も高い「下町」と呼ばれる浅草区・本所区・深川区でも7割から8割の罹災面積率となっていますが、いずれも関東大震災の焼失面積率と比較すると平均13%程度の焼失面積率の減少がみられています。工場の多かった下町は東京大空襲における爆撃目標のひとつとなった場所ですが、木造家屋に対する効果の高い焼夷弾を用いた重点的な爆撃を受けても罹災率が100%とならなかったことについては、関東大震災後の土地区画整理の効果が表れているといえるでしょう。
一方、関東大震災で大きな火災に巻き込まれなかった四谷区・牛込区や小石川区などいわゆる「山の手」では土地区画整理がなされないまま空襲に遭いました。こちらも下町と同じく「山の手空襲」と呼ばれる重点的な爆撃がありましたが、関東大震災で土地区画整理の行われなかった区域のうち麻布区・赤坂区・牛込区・小石川区では罹災面積率は7割超となっており、被害の深刻さが窺えます。戦災においても関東大震災後の土地区画整理の効果が確認され、あらためて戦後復興の過程で土地区画整理が行われることになります。また、現代においても、津波や土砂災害などで家屋等の流出があった場合には土地区画整理が行われます。
災害に強いまちづくり
100年前の関東大震災で大きな揺れと収まるところを知らない大火に襲われた東京は、今となってはアジアで1番とも言われる巨大都市へと変貌を遂げました。その歴史の裏には、多くの政治家や学者がそれぞれの思想や専門とする学問の知識を用いて、ハードでもソフトでも復興とその先の将来の発展を見つめながら計画を練り、市民一人一人がその計画を実行していったという軌跡があります。
佐野は帝都復興事業について、『一は其の帝都復興の基礎事業とし一は自分及び自分の子孫に遺す遺產として』と表現し市民に語りかけました。彼の言葉の通り、現在の東京は東京市を復興するための復興事業のもと立ち直り、まさに遺産として残されながら進化してきた街なのではないでしょうか。
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