こんにちは、サニーリスクマネジメントです。
今週のブログは、先週から始まったシリーズ「帝都復興院の為政家たち」と題し、今週の「防災週間」並びに9月1日の「防災の日」に向かい、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災からの復旧・復興に向けて政策を執り仕切った6人の政治家の言葉や災害対応のエピソードを紐解きながら歴史を振り返るとともに、現代の復旧・復興のありかたを探っていきます。
今回は、1912(大正元)年に貴族院議員に勅撰されたのち寺内内閣・加藤友三郎内閣・清浦内閣の内務大臣等を務め、東京と横浜の復旧・復興を担った「帝都復興院」において後藤新平の後任として総裁に就任した水野錬太郎の記録から、当時の内相目線での関東大震災発災直後の状況や帝都復興院の成立とその後を見てみましょう。
関東大震災の発災
"囂然たる振動と同時に室内にある書棚は倒れ、書物は出されて抛り出されて散乱し、未だ曾て見ざる大激動であつた。併しその時は普通の地震の少し大きい位に思つて話を続けてゐたのであるが、秘書官が、階下へ下りましょう、地震は少し大きいといつたので自分も椅子を離れた。
この瞬間である、天井に吊られてゐたシヤンデリヤがホンの今まで坐つてゐた前の机の上にガタンと落下した。もし自分たちが椅子を離れるのが少しく遅かつたならば、我々の頭上にあのシヤンデリヤが落ちて、少くとも頭部或は顔面に負傷をしてゐたのである。"
『我観談屑』(1930)には、水野自らの経験が彼の言葉で著されています。このとき水野や秘書官をはじめ東京市民が感じた揺れは大正関東地震と呼ばれるいわゆる本震によるもので、その揺れの大きさは烈震あるいは強震(当時の震度階級〇から六の七段階のうち七段階目と六段階目)と表現されるものでした。烈震と強震はそれぞれ現在の震度階級に直すと震度6弱から5強であると考えられています。
当時水野は内務大臣としての業務として霞ヶ関で秘書官と対談をしていましたが、上に記されたような激しい揺れを感じた二人は揺れが収まるとすぐに部屋を出たので負傷を免れつつも階下に下り、本震以降も続いた余震の中でそれぞれの部屋を回ったそうです。水野は、『このとき、第一に頭を浮んだ事は宮中のことであつた』と記しており、宮中に参内して東京市内の模様を伝えたほか、総理大臣官邸で開かれる臨時閣議のために永田町へ向かうなど、本震が収まった直後からその応急処置や復旧のためのオペレーションが始まりました。
インフラの途絶と夜通しの会議
永田町に緊急参集した閣僚たちでしたが、会議早々から困難に巻き込まれます:
"各所よりの報告も交通通信機関が杜絶したので一向に詳しい情報を得難く、さほど大きな災害とも考へてはゐなかつたのであるが時々刻々と伝へ来る警視庁からの報告を聞き、尚ほ止まざる振動に憂慮しつゝ、その対策を考へながら官邸屋内では危険だといふので、庭にテーブルを出して閣議を続けてゐたといふ状態であつた。"
東京では、情報の途絶という災害で最も憂慮すべき事態が発生していました。あらゆる情報伝達手段が使用不能となり交通も途絶した状態では、人の足で情報を伝達するほかなりませんでした。水野は度重なる余震と真隣まで延焼した火災を目前にして行われた臨時閣議において、救護についてのことを初めに相談し、被災者への食糧の供給に関する臨時支出や、内務省庁舎自身が焼失したことに伴う臨時震災救護事務局の設置に関する法案の提案をしたと記録されています。ただ、救護については被災した区域や災害の状況を知ることができなかったために被害の全体像が掴めず詳しい対策を練ることはできなかったとも記されています。
"この兩件を決定して自分は內相官邸に戾り省員を臨時に召集して應急の處置を取ることを相談した。時は夜に入つたが、電燈は點かず、水道は止まつてゐるといふ始末なので庭にテーブルを持ち出し、蝋燭の淡い光の下で諸種の案を作らしめ省議を開いたのである。今でも憶ひ出すが、その夜は可成り風があつたので机の上に立てた蝋燭の火も時々消えて、眞つ暗になるのでマツチを用意し、點火する主任を定めたといふ有樣で、その任を仰せつかつた人をローソク事務官と呼んでゐた。"
庁舎が焼失した内務省では、職員が内務省官邸に臨時招集されることになりました。ここで省内の会議が始まりましたが、電気も水道も復旧しない状態であったために蝋燭の灯りのもと、飲食もなく夜通しで会議が進められたといいます。
水野の見た震災
"叉自分は災害の狀況を視察するため、警視總監と共に市內を視察するため自動車で官邸を出て神田橋より須田町、上野、方面へ行くつもりで神田橋を越したが、それより先は火焔濛々、その熱に耐へかねたので、止むなく自動車を捨てゝ、步行した。道々の狀態を見てあまりにも大きな災害であつたのに驚いた。東京市中の米倉庫も殆んど燒けてしまひ、深川の陸軍糧秣庫も火焔に見舞はれたといふ報吿を受けたので、關西方面より米、その他の食糧品を得るの手筈を探らんとしたが電話電信何れも不通のため海軍省の無線電信で大阪府廳に打電し、その用意を命じた。"
内務大臣として市民の救護と食糧の提供を第一の応急対応として挙げた水野は発災間もない東京の街を見て「あまりにも大きな災害であつたのに驚いた」と感じています。また、市内の米倉庫の多くを焼失したことで、米をはじめとした食糧は関西から送ってもらうほかない状態でした。
内相ふたたび、帝都復興院総裁として
当時水野が内務大臣を務めていたのは加藤友三郎内閣のときで加藤の死亡に伴い辞表を提出した段階でしたが、後継内閣の決まらない中で発生した震災の応急対応にあたっていたのでした。震災直後に組閣された第二次山本内閣が総辞職し、水野は次いで成立した清浦内閣で再び内務大臣を務めることになります。そこで彼は、第二次山本内閣のときに設置された帝都復興院の総裁を後藤新平から引き継ぎます。
"淸浦內閣成立に當つて自分は內務大臣兼復興院總裁の大命を拜し再び震災後の復興計畫を立てなければならぬ地位におかれた。
當時この復興計畫について色々な議論があり、かゝる大金を投じて區劃整理その他のことをなすことは東京市民に取つて大きな負擔となり到底堪へ得るところでなく、又その計畫には非常に杜撰な點もあるといつて、復興院總裁たる自分に對しその計畫を縮少して、適當なる案を立てることを要求した人も少くなかつた。
自分は色々と現時竝に將來の事に思を致し、如何に決定すべきかと大いに苦心し硏究を重ねたのであつたが、この機會に區劃整理をなし、復興事業を完成する事は東京市の將來に最も必要なることであると考へたので、自分は前任者後藤伯の計畫を實行するの必要を認めて、帝都の區劃整理を實行することとしたのである。"
後藤退任後の帝都復興院に対しては、後藤の掲げた区画整理の対象となる全土地の買い上げを中心とした大規模な構想(理想派)とは裏腹に、それに対する反対意見や迅速な復興を優先する拙速主義に基づく意見が相次ぎました。そのような状況下で、新総裁である水野は、単純な復興だけでなくその先の発展までをも見越しさまざまな研究を重ねた上で後藤案を実行することにしました。
政府と府県、市民の努力により
10年に満たない迅速な期間で復興を遂げ、発災前よりも発展を遂げた東京でしたが、その背景にはやはりさまざまな立場や組織の人たちの努力や協力がありました。水野は発災当時からを振り返って次のように回想しています:
"震災當時に遡つて當時のことを追懷するとき、果して今日の如き成績を收め得るや否や豫期し得なかつたが、今日になつて見れば東京市民の幸福であり、實に後年長く忘るべからざる大事業であつた。
これは元より政府並に東京市當局者の努力によるは勿論であるが、一般市民が幾多の苦痛に堪へてこの事業遂行に努力した結果である。"
復興の理想かつ原則は、その地域の人たちが・彼ら彼女らの手で自らの街を復興すること。家や職、家族などの大切な人を失いながら、また日常が失われ凄惨な景色を見ながらも多くの人が一丸となって復興と将来の発展へ向かいました。
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