こんにちは、サニーリスクマネジメントです。
今週のブログは、シリーズ「帝都復興院の為政家たち」と題し、来週の防災週間に向かい、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災からの復旧・復興に向けて政策を執り仕切った6人の政治家の言葉や災害対応のエピソードを紐解きながら歴史を振り返るとともに、現代の復旧・復興のありかたを探っていきます。
今回は、当時1923(大正12)年9月2日に発足した第二次山本内閣の内務大臣であり、東京と横浜の復旧・復興を担った「帝都復興院」の総裁を務めた後藤新平のことばとともに、関東大震災からの復興の一幕を見てみましょう。
"地震は何度でもやってくる。
大きな被害を出さないため、公園と道路を作る。"
関東大震災ではM7.9と推定される大地震による家屋の倒壊とそれに伴う大規模な火災により、都市部全体が炎に包まれました。特に後者の影響は大きく、関東大震災による死者推定約10万5,000人のうち、約87%が焼死であるとされています。
発災当時の東京は正午前で、多くの家庭で昼食の準備をしていました。現代と異なり家屋は木造、調理にはかまどと薪が不可欠でしたから、地震の揺れで崩れた家屋の資材にかまどの火が着火し、瞬く間に延焼したのです。住宅の密集する地域では逃げ場がなかった一方で、一部地域では近所の庭園に逃げ込み火災から免れて生き延びた住民も存在していました。
後藤の計画した「公園と道路」は公立小学校に隣接した公園を造ることと、東京から放射状に伸びる形の道路と環状道路を設置することを示しており、前者は「震災復興小学校」として新たに建てられた鉄筋コンクリート造の小学校に災害時の避難所となる公園を併設することで建物の倒壊や火災による被害を減少させるだけでなく、それらが防災都市としてのシンボルとなることや、小学校を中心とした地域コミュニティを再構成することが図られました。実際に東京市内には52の震災復興公園が造られ、現代においても、当時の面影はほぼなくなり縮小したものの、隅田公園・浜町公園・錦糸公園からなる「三大公園」や1982(昭和57)年に復原された元町公園などが東京の震災からの復興を後世に残すものとして知られています。
後者については当初は緑地帯と幅広の歩道を含めた幅員の大きな幹線道路が計画され、最終的に規模は縮小したものの南北に走る昭和通りと東西に走る靖国通り(当時名称「大正通り」)、そして環状線の基礎として明治通りが造られました。現代では首都高速道路の高架が地上にあり、当時のような緑化された幹線道路の様相は薄れていますが、それでも都内の下町にあたる地域では帝都復興事業によって造られた道路が多く使用されています。このほかにも、派出所や防災用具を設置した「橋詰広場」を伴う9本の「震災復興橋梁」(相生橋から永代橋)橋が隅田川に架かりました。
現代でも「公園と道路」は実践されている
関東大震災からの復興にあたり行われた「公園と道路」の建設。このメソッドは、2011(平成23)年の東日本大震災における復興でも活きています。
関東大震災における復興事業を担った帝都復興院においても、防災都市を確立するためには公園の確保が重要な課題であるとされました。岩手・宮城・福島の3県ではそれぞれ「復興祈念公園」等が造られ、追悼・祈りの場や語り部などの活動による災害の伝承の場・遺構の保存の場などとして機能しています。また、2021年末には三陸の沿岸部を南北に走る「復興道路」と沿岸都市を東西に走る「復興支援道路」が全線開通し、さらなる復興の促進や活気の増加が期待されています。
このように、時代とともにその意図や効果は変遷しているものの、「公園と道路」は災害からの復興を示すものとして存在し、また今後再び発生する災害による被害を軽減する機能を果たすものとして、大地震から復興する際にはほぼ必ずと言ってよいほど造られてきました。
近年、土地や暮らしの観点から公園が減少し始めているほか、首都直下地震発生時における発災直後の道路施策に難点が残るなど様々な課題が発生していますが、一度彼の唱えた「公園と道路」に立ち返って防災・減災、そして復旧・復興について考えることも必要なのかもしれません。
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