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【帝都復興院の為政家たち】市長と震災



こんにちは、サニーリスクマネジメントです。

今週のブログは、先週から始まったシリーズ「帝都復興院の為政家たち」と題し、今週の「防災週間」並びに9月1日の「防災の日」に向かい、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災からの復旧・復興に向けて政策を執り仕切った6人の政治家の言葉や災害対応のエピソードを紐解きながら歴史を振り返るとともに、現代の復旧・復興のありかたを探っていきます。


今回は、関東大震災発災当時東京市長を務め、東京と横浜の復旧・復興を担った「帝都復興院」の計画実行を東京市として後押しした永田秀次郎による著作から、東京市長の見た関東大震災を覗いてみましょう。


市役所から見た火災旋風


『非常時の自治』(1939)によると、永田は、1939(昭和14)年4月の講演会で自身の体験についてこう語っています:


"今一つ私の經驗したことは、御承知の震災の當時のことでありまして大正十二年の九月一日午後八時頃に私は東京市役所の二階に居りまして、あの諸方からの火災の發生してをる樣子を見た時の私の心持は、實に今日でも尙ほ忘れることのできない心持でございます。御承知の通りにあの當時には隨分諸方から火が出た。(中略)それが東から西へずつと一面に、火が風に從うて押し切つて、すべてを嘗め盡して燒けたのかと言へばさうではない。諸方に火災が起こつて(中略)燃え出しては、京橋の火は右の方へ行つてゐるかと思へば、日本橋の火は左の方へ行つてゐる、また淺草の火は東の方へ行つてゐるかと思へば、月島の火は西の方に向つてゐると云ふやうに、諸方に出來た火災が恰るで東京市中を散步でもするやうな調子に(中略)、火が點いてゐる。あの火の少し力の消へた弱つてゐる時に、誰か行つてあの火を叩きつけてしまへば、假令水が無くても十分に消すことが出來たであらうが、如何にも吾々を嘲弄するかの如き態度を以て、火災が橫行闊步してゐた樣子を、市役所の二階から見て、吾々の努力が斯ういふ時にまだ足らぬなといふことを、熟々考へたのであります。"

──今一つ私の経験したことは、ご承知の通り(関東大)震災の当時のことでして、大正12年の9月1日午後8時頃に私は東京市役所の2階に居りまして、あの方々(ほうぼう)から火災が発生している様子を見た時の私の気持ちは、本当に今日になってもなお忘れることのできない気持でございます。ご承知の通りあの当時は随分と色々な所から火が出た。(中略)それが東から西へずっと一面に、火が風に従って押し切って全てを燃やし尽くして焼けたのかというと、そうではない。様々な所で火災が起こって(中略)燃え出しては、京橋で出た火は右の方へ行っているかと思えば日本橋で出た火は左の方へ行っている、また浅草で出た火は東の方へ行っているかと思えば月島で出た火は西の方に向かっているというように、あちこちで出た火災がまるで東京市中を散歩でもするような加減で火が点いている。あの火が少し力の消えて弱まっている時に、誰かが行ってあの人叩きつけてしまえば、たとえ水が無くても十分に消すことが出来たであろうが、いかにも我々をあざけりもてあそぶような態度で火災が勝手気ままに市中を巡っている様子を、市役所の2階から見て、我々の努力がこういうときにまだ足りないなということを、よくよく考えたのであります。


発災当時、東京市役所は麹町区有楽町(現・千代田区丸の内3丁目)にあり、永田は市役所より、多方から燃え上がり風に乗って激化する、いわゆる「火災旋風」を見たのでした。


災害大国として


また、同年の永田による書籍『日本の前進』(1939)では、「災害大国」である日本の特殊性を踏まえ、関東大震災からの復興について次のような考察がなされています:


"(前略)外國人は日本を視察に來て初めて地震といふものを經驗するのが多い。彼等は「日本國とは地震と噴火によりて成れる國なり」と言ふ。そして日本程世界中に天災の多い國は無いと云ふ。(一)暴風雨。(二)火災。(三)洪水。(四)旱魃。(五)津浪。(六)地震。(七)爆發と並べて「日本は天災學校の時閒表の如く、(中略)正確に天災に見舞はる」と言つて、「天災の代表は美はしき富士山なり」とまで言つて居る。そして結論として「日本人は天災によつて訓練される」と言ふのである。全く我々日本人には氣の付かない觀察である。

 併し、天災によつて訓練されると言はれて見れば、さうも思はるゝ點がある。かの大正十二年の大震災は世界を驚かした。そして日本は今後容易に再び回復し難いであらうとまで言はれたのである。然るに事實は之に反して直ちに復興計畫を樹て區劃を整理し、道路を完成し、忽ちにして禍を轉じて福となし、從來に考へ及ばなかつた完美な都市を築きあげたのである。

 當時私は東京市長をしてゐたが、濠洲から來た某新聞記者が「東京は果して復興するか」と質問したので、私は笑つて「五年も經てば今迄よりは立派になる」と言つたが、彼は喫驚して「どうして左樣の事が信ぜられようか」と言つてゐた。(中略)率直に言へば震災が無かつたならば、東京はこんなに早く立派にはならない。震災があつた爲に區劃整理も道路の擴張も容易に行はれたのである。(後略)"

──(前略)外国人は日本を視察に来て初めて地震というものを経験することが多い。彼らは「日本国とは地震と噴火によって成った国である」と言う。そして世界の中で日本ほど天災的の多い国は無いと言う。(1)暴風雨。(2)火災。(3)洪水。(4)旱魃(かんばつ)。(5)津波。(6)地震。(7)(火山)爆発と並べて「日本は天災学校の時間割のように、(中略)正確に天災に見舞われる」と言って、「天災の代表は麗しい富士山である」とまで言っている。そして結論として「日本人は天災によって訓練される」と言うのである。実に我々日本人では気付かない観察である。しかし、天災によって訓練されると言われてみれば、そうも思われる点がある。あの大正十二年の大震災は世界を驚かせた。そして日本は今後容易に再び回復するのは難しいだろうとまで言われたのである。それなのに事実はこれに反してすぐに復興計画を立てて区画を整理し、道路を完成し、瞬く間に禍転じて福となし、これまでに考えつかなかった完全で美しい都市を築き上げたのである。当時私は東京市長をしていたが、オーストラリアから来たとある新聞記者が「東京は果たして復興するか」と質問したので、私は笑って「5年も経てば今までよりは立派になる」と言ったが、彼はびっくりして「どうしてそのようなことが信じられるだろうか、いや、信じられないだろう」と言っていた。(中略)率直に言えば震災がなかったならば、東京はこんなに早く立派にはならない。震災があったから区画整理も道路の拡張も容易に行われたのである。(後略)


永田は災害の多い日本に対する「日本人は災害によって訓練される」という外国の人々の言葉を身をもって体験したこととして関東大震災を挙げています。特に復興に関して、土地区画整理については、かつてから多くの案があったものの、障壁も多く、復興の一環として行うほかなかったように思われます。永田は東京市長として復旧・復興に関する業務だけでなく、東京市会(市議会)を巻き込んで帝都復興院の施策を後押ししたり、1923(大正12)年に貴族院議員や衆議院議員の有志で結成された「大震災善後会」(会長: 徳川家達・副会長: 渋沢栄一)の一員として義援金の募集等に携わったりと、関東大震災からの復興に大きく貢献しました。彼の復旧に際しての業務では、当時の功労者について記した書籍『働き盛りの男』(1925)に次のようなエピソードが残されています:


"(前略)前古未曾有の大地震を經驗し、救恤、整理、復興と、恐らく東京市として最も多難な事件に打つかつた。しかし彼は、あせらず魔胡つかず、着々として仕事を進めて行つた。何でも地震の九月一日には、市役所前の廣場に難を避け、盛んに搖りかへしを喰ひながら、一、宮中伺候二、水道調査三、何々と一々圓念に手帳へ書き留め、萬事遺漏なきを期してゐたさうだ。"

──昔から見てもかつてないほどの大地震を経験し、被災者を救い恵み、整理をつけ、復興すること、おそらく東京市として最も困難の多い出来事にぶつかった。しかし彼は焦らずまごつかず、着々と仕事を進めていった。どうやら地震の起きた9月1日には、市役所前の広場に避難し、何度も起きる余震の中で、一に宮中への参内、二に水道の調査、三に何々と一つ一つ入念に手帳に書き留めて、全てのことを漏れなく把握するように努めていたそうだ。


発災直後から永田自身も応急対応に際し、入念に対応にあたっていたことが窺えます。


紡がれる都市といのち


日本政府、帝都復興院、東京府・東京市、神奈川県・横浜市を中心とした施策の推進と市民らの力により9年強という短い期間で復興を遂げた東京・横浜。区画整理がなされ、道路は広くなり、新しい公園や小学校が出来て、新生の帝都が誕生しました。街の外観が復興した一方、被災地では発災まもない頃から新たな命も生まれていました。永田は自身の著した『日本の堅実性:慶びの春に」(1924)において、1923(大正12)年9月30日、貞明皇后(当時)が東京市内の市立救護所を訪問された際のことを記録しています。帝都復興院が設立されてから3日が経ちいよいよ復興が始まろうとしていたこの時の東京の街は、バラックが立ち並び、被災した駅や郵便局も仮の建物や場所で営業していたことが窺えます。市立救護所内の内科や外科など様々な部屋をご覧になった貞明皇后が最後に向かわれたのは、産科の部屋でした:


"(前略)それから產院の室へ御先導申上げながら私は此所からは產科室でありますと申上げますと陛下は御思ひ懸けなき御樣子で、茲で產れたのもありますかとお訊ねになつた。私は開院後此所で產れましたのは十八人でありまして男兒が十人女兒は八人でありますと申上げますと陛下は餘程の御驚ろきの體に拜せられた。私は叉此所で出產致しました產婦は地震で餘り喫驚り致しました爲か大體にお乳が少ない樣子で御坐りますと申しまするとさうですかと深く御感じの御樣子でお默頭になられた。陛下は左側の產婦の傍に嬰兒が寢て居るのを御覽になつて其前に御進みになつたので私は其名札には出產の日が記してありますと申上げますと陛下は一寸御覽になられたが折から空席の者の名札に四歲と記してあつたのでこれは?と仰せられましたから私は此名札はこちらの者であります。此產兒のはそちらの名札でありますと申上げますと陛下は[九月廿七日]と記したのを御覽になつて一昨日と御口の中で仰せられて折からすやゝゝと母親の傍に寢て居る嬰兒の顏を御覽になり大層大きいとお襃めになつた。(後略)

──(前略)それから産院の部屋へご先導申し上げながら私は「ここからは産科室であります」と申し上げますと陛下は思いがけないというご様子で、「ここで生まれたものもありますか」とお尋ねになった。私は「開院後ここで生まれましたのは18人でありまして男児が10人女児は8人であります」と申し上げますと陛下は余程驚きになられたご様子であると拝見した。私はまた「ここで出産しました産婦は地震でかなり驚いたためか大体お乳が少ないようでございます」と申しますと「そうですか」と深くお感じのご様子で頷かれた。陛下は左側の産婦の傍に生まれたばかりの子が寝ているのをご覧になってその前にお進みになったので私は「その名札には出産の日が記してあります」と申し上げますと陛下は少しご覧になられたが丁度その時空席の者の名札に四歳と記してあったので「これは?」と仰せられたものですから私は「この名札はこちらの者であります。この生まれたばかりの子のはそちらの名札であります」と申し上げますと陛下は[九月廿七日]と記したのをご覧になって「一昨日」とぽつりと仰せられて丁度すやすやと母親の傍で寝ている生まれたばかりの子の顔をご覧になり「大層大きい」とお褒めになった。(後略)


貞明皇后はこの後も泉橋慈善病院(現・三井記念病院)や日本赤十字社病院(現・日本赤十字社医療センター)をはじめとした病院や罹災者のための施設を含め被災地に多く出向かれました。そういった病院や施設の中では、多くの市民が手当を受けたり、また子どもが生まれたりして、建物やインフラといったハード面だけでなく、人々の健康というソフト面でも復興が進んでいきました


──関東大震災から100年


今日まで「帝都復興院の為政家たち」と題し全9回、9月1日の防災の日に向けて、ちょうど100年前のその日を想起し追憶する連載として様々な当時の状況や復興に大きく関わった為政者たちのことばを紹介してきました。紹介させていただいたものの他にも、掲載しきれなかった出来事はたくさんあります。それと同じように、書籍として著されなかった無数の市民の間での出来事があるはずです。そして、それらの上に現在の東京が成り立っています。


100年前に関東大震災で大きな打撃を受けた東京はじめ関東ですが、現在は首都直下地震のリスクを抱えており、今この文章を読んでいるときに突然大きな地震が起きてもおかしくないほどにそのリスクは高まっています。首都直下地震が発生すれば、非常に大きく激しい揺ればかりでなく、津波、そして火災も懸念されます。また、日本という全体的な視点で見ても全国各地に直下型地震のリスクは潜在的に存在しています。また、南海トラフ地震をはじめとした東南海の地震とそれに伴う津波も脅威であり、未だ時折東日本大震災の余震と見られる比較的大きな地震がしばしば発生しています。


ここまで「帝都復興院の為政家たち」を読んでいただいた皆さんそれぞれに、関東大震災から学ぶことや感じることがあったと思われます。過去に学び現在を知り、そして未来を考える、そういったきっかけになれば幸いです。




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