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【帝都復興院の為政家たち】復興と世論



こんにちは、サニーリスクマネジメントです。

今週のブログは、シリーズ「帝都復興院の為政家たち」と題し、来週の防災週間に向かい、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災からの復旧・復興に向けて政策を執り仕切った6人の政治家の言葉や災害対応のエピソードを紐解きながら歴史を振り返るとともに、現代の復旧・復興のありかたを探っていきます。


今回は、都市計画法(旧法)の制定に携わった都市計画家であり、東京と横浜の復旧・復興を担った「帝都復興院」の計画局長兼理事を務めた池田宏による都市計画に関する遺稿をまとめた『池田宏都市論集』(1940)を読み解き、関東大震災からの復興の指針と復興計画の由来、その注目についてみていきましょう。


震災対応に関する政府の見解


池田の記すところでは、関東大震災の発災翌日に組閣された第二次山本内閣は震災の対応に関して次のような見解を示していました:


"振古未曾有の惨禍に遭ひて、日常の設備蕩然一空に歸し、茫然爲す所を知らざるの非常時に直面して聖旨を拜したる山本首相が、後藤内相其他閣僚と共に、恐懼措く所を知らざりしは察するに餘りあり、乃ち山本首相は迅速愼重閣議を練り、親しく所信を悉くして諭告する所あり、救護の措置と善後の方策とは、實に此間に、其大綱を決したるの跡を徴すべし。"

──長い歴史の中で初めての惨禍に遭って、それまで普段見ていた建物は跡形もなくすっかり消えてしまい、とりとめもなく為すべきことのわからない非常時に直面して詔書を受け取った山本首相が、後藤内相ら閣僚とともに、おそれかしこまり続けるのは察する余地があり、すぐさま山本首相は迅速かつ慎重に閣議を練り、直接所信を余すことなく示して諭し告げることには、救護の措置と今後をよくするための方策とは、本当に直近の期間で、関東大震災についての大綱の実施されたことを証として残さなければならないとのことであった。


そして、『後藤内相の「帝都復興の議」』において表明された『當時の政府の所信』は次のようなものでした:


"東京ハ帝國ノ首都ニシテ国家政治ノ中心、國民文化ノ淵源タリ、從テ其ノ復興ハ啻ニ一都市ノ形體回復ノ問題ニ非ラズシテ、實ニ帝國ノ發展、国民生活改善ノ根基ヲ形成スルニ在リ(後略)"

──東京は帝国の首都であり国家政治の中心、国民文化の根源であるから、東京の復興はただ都市の形をもとに戻すという問題ではなくて、帝国の発展、国民の生活の改善のおおもとを形成することが本題である


しかし、復興に向けた方策を練っていく中で、首都を移すという案(遷都論)が浮上します:


"内閣は、乃ち此議を基礎として敢然として萬難を排し、一路復興の方策に向つて猛進せんと欲し、廟議を凝しつゝありし間に、端なくも一部に遷都論行はれ、公然之を唱ふる者さへあるに至れる。政府は、其聲明して善處したるに依り、帝都の民心漸く安からむとしたる極めて大切の場合に、再び遷都論に依りて擾されむ事を虞れたるを以て、遂に儼乎として帝都を廢墟に復興する悲壯の議を決定するあり(後略)"

──内閣は即座に「帝都復興の義」を基礎として思い切って多くの難題を取り除き、ひたすらに復興の方策に向かって猛進しようとして朝廷の評議に集中していたが、はからずも一部に遷都論が浮上し、これを公然と唱える者さえ現れる事態に至った。政府は、それらに対して声明を出し善処した理由として、東京市民がようやく安心しようとしている非常に大切なときに再び遷都論に依拠して市民の安心が乱されることを懸念していると説明し、とうとう東京の荒れ果てた市街の上に復興するという悲しさの中にも勇ましい閣議をおごそかに決定したのである


「帝都復興の三則」


ここで遷都論を否定したのは、内相と復興院総裁を兼任した後藤新平の「民心」(市民の安心)を重んじる姿勢が影響したと考えられるほか、詔書で示された「帝都復興の三則」が大いに関係しています。『池田宏都市論集』では、「帝都復興の三則」について次のように記述されています:


"卽ち此詔書に依りて窺知するを得べき帝都復興の大精神は、

  一 遷都論を排して專ら帝都の回復を圖る事

 二 帝都の回復方針は進んで將來の發展を圖り巷衝の面目を一新し以て興國の基を固むるを旨とすべき事

 三 帝都の回復は國家事業として籌畫經營萬違算なきを期すべき事

の三則に要約することを得べし。"

──つまりこの(復興に関する大正天皇*の)詔書から窺い知ることができる帝都復興の最上の理念は、1: 遷都論をしりぞけて帝都の回復の計画に集中すること、2: 帝都の回復方針は積極的に将来の発展を図り、世間の中心としての体裁を一新することで国の振興の基礎を固めることを主とすること、3: 帝都の回復は国家の事業として計画と実行すべてにおいて誤算がないよう尽くすことのなるほど3つのきまりに要約されるのであった。

*実際は摂政である皇太子裕仁親王(当時)が政務を執っている。


第二次山本内閣並びにそれに属する帝都復興院では、この「帝都回復の三則」を軸として復興に関する政策や事業が展開されることになります。これは現代から見ても合理的な内容であると考えられるでしょう。まず遷都は多額の費用を用いて国家を運営する政治や官庁の機能がすべて移動するだけでなく、その国について国内外の印象や世論を大きく変えるものとなるので遷都は避けて都市を再建することが費用や世論の安定の面で得策であると考えられます。そして、将来の発展を図る復興も今や当然となった考え方ではありますが、被災地が復旧してそこに人が残っている、あるいは人が戻ってくることで復興だけでなく更なる発展も期待できます。さらに、復興に際して公共事業を活用することも前者と同じく現在ではスタンダードになっています。災害で家や職場を失った市民の一部は不法行為を行うなど治安の悪化につながる行動を取る可能性がありますが、公共事業を行うことで失業者を雇い、都市だけでなくその都市にもといた人々の生活の再建と定着にも貢献することができます。


他国からの注目


関東大震災により帝都が壊滅的な被害を受けた日本ですが、当時はイギリス帝国、アメリカ合衆国、フランス共和国、イタリア王国とともに列強と呼ばれた一国。大災害からの復興の道のりは海外からも注目されていたようです:


"(前略)Manchester Guardian 紙が「列强中に於ける日本の地位」と題し、日本の將來に就て悲觀するの理由毫も認められず、日本人は今囘の如き大災害に會ふも唯絕望悲歎に暮るゝが如き國民に非ず、必ずや五年後には新東京、新橫濱を築き上げ、國家の眞の信用を樹立すると信ずる旨特別記事を揭載したる旨、八日倫敦發國際電報ありし事皆注意すべき記事にして、帝都の復興に關する國論の趨勢を卜するに足る(後略)"

──マンチェスター・ガーディアン(現・ガーディアン)紙が「列強中に於ける日本の地位」と題して、日本の将来について悲観する理由はいささかも認められず、日本人は今回のような大災害に遭ってもただ絶望や悲嘆に暮れているような国民ではなく、必ず5年後には新たな東京と横浜を築き上げ、国家の真の信用を新しくしっかりと作り上げると信じているという特別記事を掲載した件について、8日、ロンドンから国際電報があったことを国内の新聞社は皆注目すべき記事にして、帝都の復興に関する世論の成り行きを予想するに相応しい内容として扱った


このほかにも、アメリカ合衆国をはじめとした外国からの義援金などの資金面での支援があったほか、後藤はアメリカ合衆国から歴史学者・政治学者であるチャールズ・A・ビアードを招聘するなど、技術面での支援も受けました。『池田宏都市論集』に記載された当時のエピソードをご紹介して、締めくくりとしましょう:


"(前略)後藤内相は(中略)Charles A. Beard 博士に宛て、

Earthquake Fire destroyed Greater part Tokyo Thoughgoing reconstruction needed please come immediately if possible ever for short stay

と打電したるに、之と行違いに、同博士より

Lay out new street, forbid building without street lines, unify railway station.

とアドヴアイスし來れる(後略)"

──後藤内相はチャールズ・A・ビアード博士に宛て、「東京の大部分が震災によって破壊され兎も角再建を要しています、数日間の泊まり込みが可能であれば今直ぐに来られたい」と打電したところ、これとすれ違って、ビアード博士から「新しい街路を敷きなさい、区画を引かないままの建設は禁止し、鉄道駅を統一せよ」とアドバイスが来た


関東大震災からの復興には、国内のみならず、外国からの注目や支援もあったのでした。これは現在でも変わらないことで、大災害が発生すれば各国で義援金や技術をもって支援しその行末を見守るといった国際協力の姿勢も復興のプロセスに数えられています。











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