こんにちは、サニーリスクマネジメントです。
今週のブログは、先週から始まったシリーズ「帝都復興院の為政家たち」と題し、今週の「防災週間」並びに9月1日の「防災の日」に向かい、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災からの復旧・復興に向けて政策を執り仕切った6人の政治家の言葉や災害対応のエピソードを紐解きながら歴史を振り返るとともに、現代の復旧・復興のありかたを探っていきます。
今回は、東京と横浜の復旧・復興を担った「帝都復興院」のその後をおおまかに見ながら、関東大震災からの復興に要した歳月や制度の変遷を見ていきましょう。
帝都復興院の終焉
東京と横浜の復興は、「帝都復興の三則」と呼ばれる1: 遷都論をしりぞけて帝都の回復の計画に集中すること、2: 帝都の回復方針は積極的に将来の発展を図り、世間の中心としての体裁を一新することで国の振興の基礎を固めることを主とすること、3: 帝都の回復は国家の事業として計画と実行すべてにおいて誤算がないよう尽くすことの3つからなる方針を中心に後藤新平を総裁とした「帝都復興院」によって行われてきました。
当時第二次山本内閣で内務大臣でありながら帝都復興院の総裁も務めていた後藤ですが、復興計画の予算が承認されたところで思わぬ事件が発生し辞職に追い込まれます。それは、皇太子・摂政宮裕仁親王(当時)が無政府主義者から狙撃を受けた暗殺未遂事件・「虎ノ門事件」でした。これにより第二次山本内閣は総辞職に至り、後藤も内務大臣の辞職とともに帝都復興院を去ることとなりました。
その後は内務省参事官や内務省秘書官などを歴任した水野錬太郎が後任に就きますが、帝都復興院は1924(大正13)年2月をもって廃止となります。というのも、帝都復興院はあくまでも復興計画を定めることが主務であり、その後の復興事業を実際に管轄したり実施したりするのは内務省や東京府・東京市あるいは神奈川県・横浜市でした。内閣総理大臣直轄であった帝都復興院が廃止となった代わりに、今度は内務省が復興事業を担当することになります。
復興局の6年間
帝都復興院時代に考案された復興事業は、内務省復興院の管轄のもと東京と横浜で6年の歳月をかけて進められました。復興局による『復興事業進捗狀況』(1924-1930)によれば、土地区画整理や幹線道路をはじめとした大規模なインフラ整備は国が、比較的小さな道路の整備や公園、小学校などの整備は東京府・東京市と神奈川県・横浜市が主体となり進めていたことが示されています。
帝都復興院から内務省復興局への移行から5年が経過した1929(昭和4)年10月には、帝都復興の達成を記念した「帝都復興展覧会」が東京市内で挙行され、約7年の歳月をかけた東京横浜の復興が名目上完了したこととなりました。
完全なる帝都復興の完了へ
1930(昭和5)年8月になると、帝都復興事業に直接関与した者・帝都復興の事業に伴う要務に関与した者に対して授与する「帝都復興記念章」が作られ、関東大震災発災当時の内閣総理大臣や閣僚をはじめとした政治家や行政官が帝都復興の功労者として称えられました。
この数ヶ月前にあたる1930(昭和5)年4月1日をもって復興局は廃止となり、内務次官が局長を務める「復興事務局」が新たに復興局の業務を引き継ぐことになりました。その復興事務局も1932(昭和7)年4月1日をもって廃止されました。これをもって帝都復興事業の制度は名実ともに完了となったのです。約9年半に及ぶ復興のオペレーションは終了し、東京は帝都として返り咲きました。
長期にわたる復興、カギは「人」
帝都東京を中心に大地震と大火・津波で多くの影響を受けた関東大震災においては、その復興を司る組織は帝都復興院・復興局・復興事務局と変遷しおおよそ10年で集中的な復興政策が終了しました。時代が下り、日本は再び数度にわたって国内各地で大震災を経験しています。阪神・淡路大震災や新潟中越地震などが挙げられますが、いずれも局地的な災害であったことや国が復興を援助する法や制度の整備が進められていなかったことが関係して復興を司る官庁は設立されませんでした。
実は関東大震災以後そういった官庁が設立されたのは2011(平成23)年の東日本大震災が初めてでした。東日本大震災は宮城県で最大震度7、関西でも震度3を観測したほどの広範囲かつ非常に大きな揺れや関東の太平洋に面した広範な地域で観測され、東北ではゆうに6m(沿岸では約40m)を超えた津波に加え福島県では原子力発電所事故が発生するなど、それまでの大震災とは大きさ・広さ・性質ともにまったく異なる、県レベルでも対応が難しい災害でした。
3月11日の発災から約1ヶ月後に「東日本大震災復興構想会議」の第1回会議が行われ、復興だけでなく地域の発展までをも目標とした「創造的復興」を軸に復興の模索が始まりました。同年12月には復興庁設置法が成立、翌年にあたる2012(平成24)年2月に同法が施行となり復興庁が発足して早10年。2020(令和2)年には復興庁の設置期限が延長され、現在も東日本大震災からの復興は続いています。
かつて帝都復興院総裁を務めた後藤新平は「一に人、二に人、三に人」という言葉を残しています。これは復興においてもとても大切な考え方で、仮に道路や建物が再建しても、さらなる防災対策がなされても、そこに人がいなければ復興は進まず、真の意味で復興したとはいえないのです。理想は多くの地元の人が復興に関わり、地元の人たちの手で完成した復興後の街にたくさんの人が訪れ活性化が続くことでしょう。
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