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執筆者の写真Hinata Tanaka

【帝都復興院の為政家たち】未曾有の災害にどう立ち向かう



こんにちは、サニーリスクマネジメントです。

今週のブログは、シリーズ「帝都復興院の為政家たち」と題し、来週の防災週間に向かい、1923(大正12)年9月1日に発生した関東大震災からの復旧・復興に向けて政策を執り仕切った6人の政治家の言葉や災害対応のエピソードを紐解きながら歴史を振り返るとともに、現代の復旧・復興のありかたを探っていきます。


今回は、大蔵省をはじめとした行政のシーンで財政の手腕を光らせ、東京と横浜の復旧・復興を担った「帝都復興院」で副総裁を務めた宮尾舜治に関する伝記『宮尾舜治伝』(1936)から、関東大震災の発災直後の状況と復興の道筋を見てみましょう。


社会変化の中で


『宮尾舜治伝』によれば、関東大震災は都市に暮らす人々の考え方が大きく変わっていく中で発生した災害であったと記述されています:


"當時個人主義の思想が絕頂に逹してゐたので之を遂行することは仲々容易の事業ではなかつたのである。"


1910年代から1920年代にかけて展開された「大正デモクラシー」の一連の流れを受け、市民の間で個人の権利や自由の保障を求める考え方が広まりつつあった東京では、災害という緊急時に際して「個人主義」が「利己主義」となって現れたようです。また、同書では次のようにも語られています:


"長岡將軍は此等の弱虫を一時引止めてそんな馬鹿なことはありやうがないから安心しろと諭しても、自己保全以外に何事をも考へなかつた腰拔漣は長岡中將なんかは知る筈がないと云つて逃げ去つた。"


文中の「そんな馬鹿なこと」とは、関東大震災の発災後まもなくして生まれた動乱の中で発生した朝鮮人虐殺事件を引き起こしたデマで語られた事柄を指しています。本書でもそれらのデマについては『根も葉もない』と表現されていますが、上記の一文からは市民の動転が窺えます。


また文中に登場する長岡将軍(中将)は陸軍中将で1916(大正5)年に予備役となった長岡外史を指しており、若い男子たちが中将の話を冷静に受け入れることができなかったほどに市民の混乱や不安が大きかったことが物語られています。関東大震災においては都市部が被災したために新聞等のマスメディアの機能も低下し、情報の正確さが担保されないまま紙面に載る事案も発生していました。同書では武士が町民を落ち着けることができた過去の時代と比較し、新たな時代における発災時の市民の姿が描かれています。


ただ、宮尾としての復興政策のありかたとしては次のような考え方があったようです:


"西洋の國家はイザ知らず我國家は家庭の延長とも看るべき家族國家であり、一部の災害は奈良朝の昔から國家に於て救濟して來たものである。"


ここで宮尾の復興に対する考えかたと新たな社会の形の対立、いわばそれまでの歴史の中で創られてきた伝統的な家族主義と社会変化の中で浸透し始めた個人主義の衝突が見られ、その結果、同書で表現される『ワンマンコントロール』による復興施策が難航したと考えられます。


『宮尾舜治伝』で著されているように、最速で復興施策を実施するには『ワンマンコントロール』つまり独断的なトップダウンが適しているのですが、たとえ旧憲法下の国家であったとしても、民本主義や自由主義の発展した社会においては非常に難しいことであったのでしょう。現代を考えてみれば容易ですが、この時代にもすでに市民を含めたステークホルダーとの合意形成やリスクコミュニケーションの新たなありかたなどの必要性が現れているものだと思われます。


理想派と拙速主義、財政の課題


そもそも宮尾が『ワンマンコントロール』に言及していたのは、彼が復興施策において「拙速主義」をとっていたことが関係しています。東京・横浜の復興に着手した当時の帝都復興院には、「理想派」と「拙速主義」という2つの考えかたが存在していました。理想派とは総裁である後藤らの掲げた、焦土を全て買い上げ、巨額の資金と長い歳月を費やしてまったく新しい都市区画を造るという考えであり、一方の宮尾らが掲げた拙速主義とは仕上がりはそこそこではあるがいち早く都市を再生させることに重きを置く考えでした。


関東大震災の復興事業についてはしばしば「理想派と拙速主義の対立」が語られるのですが、『宮尾舜治伝』においては、後藤が主導した理想派の施策の中にも拙速主義の手法が加味されたと記述があり、むしろ宮尾の財政面での苦心を中心に語られています。


帝都復興院が最初に考案した復興事業計画に要する資金は評議会や審議会といった承認のプロセスを経る中で徐々に削減され、理想派が掲げたところの約30億円(当時)という金額の約1/5余となる約5億円強に縮小しました。しかし、この金額で縮小がとどまったことには宮尾の陰での努力が実を結んだと考えられます。


宮尾は様々な評議会や審議会、あるいは総裁である後藤への提案などに際して、毎日大蔵省へ通っていくらまで予算を削減できるかを吟味するための資料を集めたり、濃尾地震や桜島の噴火、米沢の大火など関東大震災の地震や火災と似たような災害の復興に支出した金額と関東大震災からの復興に必要とされる金額を比較して、それが平時の負担額に対してどの程度の割合を占めているかなど緻密な調査と計算を繰り返しました。


また、総裁であった後藤は過去に宮尾とともに仕事をしていたこともあって彼の財政の手腕を信頼していたとみえ、「ひとつそれでやってみたまえ」と宮尾の考案した財政を後押しした場面もあったことが『宮尾舜治伝』に示されています。


財政面に関して日夜を問わず地道な努力を繰り返し、徹底的に数字を見極めることで予算削減に歯止めを掛けることに注力した宮尾ですが、彼の財政に関する工夫がなければ、きっと今の東京は現在とは違う形となっていたことでしょう。


未曾有の災害に対してどう向き合うか


関東大震災は、それまでの社会とは対極であると捉えられるほどに異なる社会で発生した、初めての大災害でした。それは、ハードでもソフトでも、両方の意味で「未曾有」でした。

実際、大災害に際してはきまってデマや噂、流言が広がります。特にインターネットやSNSが発達し普及している現代において、その伝達速度は100年前と比べるとはるかに速いものとなっています。


また、財政面についても、100年前より社会が複雑化した現代では様々なステークホルダーとの話し合いや合意形成が必要になり、どこに何の目的でどれだけの予算を充てるか、ボトムラインはどこかなど、それぞれの決定事項が必ずしも円滑に決定するとは限りません。時代や社会は異なっても、現代に応用できる教訓が100年前の災害にも多く存在しています。


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